大仏寺・洋人街


【白象街】

白象街は、渝中区の中心部近くにある非常に目立たない小さな道ですが、かつては「重慶の金融街」と呼ばれた場所だと地元のガイドブックに紹介されていたので、歩いてみることにしました。

白象街の入口には、その名の通り右上写真のような白象の像が設置されています。

白象像の奥に見える白象賓館という古びたホテル(但し名刺を貰ってみたら、一応星が3つ書いてありました)から白象街に入っていくと、右写真のような何の変哲もない通りが続いています。

然しよく注意して歩くと、右手のビル壁には、それほど大きくない左下写真のようなプレートが貼り付けてありました。

このプレートには、以下のようなことが書かれています。




歴史上の「金融街」

白象街は全長約425m、幅は10mに満たず、1886年、この場所に重慶で最初の有線電報局が設置され、1891年に重慶が開港されて以降は、イギリス、アメリカ、日本などがこの場所に商社を開設し、金融街を形成していった。その当時、白象街は重慶都市建築の最も豪華な通りであった。





内陸部にある重慶の「開港」については、少し中国史全体を紐解く必要があろうかと思います。

アヘン戦争にて英国に屈し締結した南京条約では、香港割譲の他、広州・アモイ・福州・寧波・上海の開港が行われました。当然、この開港の中には内陸部である重慶は登場しません。

然し、沿岸部の主要都市を開港させた英国は、更に内陸部への進出を画策して1876年に清朝政府と煙台条約を締結、この際に重慶への駐在員設置を認めさせることに成功しました。

当初、険しい三峡を抜けなければならない重慶への航路は難しいと言われていたものの、英国は1890年には重慶開港も認めさせた上で、光緒17年(1891年3月1日)、重慶税関が設置されたことで、正式に「重慶開港」が行われることになります。

これを契機として、日本を含む各国も次々に重慶に進出、この地に拠点を設置していきました。

残念乍ら、当時、どういった日本企業が重慶に進出したのか、資料を見つけ出すことが出来ませんでしたので、これは継続調査したいと思います。

さて、こうしてかつては多くの外資企業が進出した重慶の金融街ですが、今では完全に廃墟と化していました。

白象街を真っ直ぐ進むと、やがて右写真のような古い建築物が幾つか見えてきます。

然し何れも特に歴史建築として保護・整備されるでもなく、次々に取り壊しをされているようです。近くまで寄ってみると、最早、半ば瓦礫とゴミの山となっていました。

折角に100年以上の歴史を有する重慶の金融街なのですから、是非、重慶市政府には、残されている建築物を有効に活用しつつ、この場所をきちんと再整備して頂きたい、と願って止みません。


【白象街への行き方】

白象街は渝中区の東端近く、長江沿いにあります。

バスでも行けるようですが、筆者は地下鉄1号線小什字駅から、長江方向へ坂を下っていくルートで歩いてみました。

実は以前に渝中区から長江索道に乗った際、乗り場の横にある小道がとても気になってたのですが、地図で見ると、小什字駅からはまさにそのルートが最短のようです。

長江索道の渝中区側乗り場ビル左側の急な階段を下っていくと、狭くて古い住宅街の真ん中を抜ける道へと続いていきます(右写真)。

筆者は右写真の場所まで階段を降りたところで右折してみました。
更に道なりに進んでいくと、道幅はどんどん狭くなり、周りの住居も木造が増えていきます。

十八梯に行った際にも感じましたが、重慶の中心部は高層ビルが立ち並んでいる近代都市に見えますが、ほんの少し奥に入り込んだだけで、50〜100年前にタイムスリップしたかのような場所が沢山残っています。

左写真は恐らく一番細いであろう路地ですが、所狭しと並ぶ古い木造住宅、ぶら下がる洗濯物や干肉など、見応えがある景色です。

中国は一般的に古い建築物も石造が多いと思うのですが、重慶には木造が多いのは、矢張り急坂が多い独特の地形から、石では重量が有りすぎて建築が難しく、自ずと木造住宅になったのではないか、と、こういう風景を見ていると感じられます。

少し開けた道に出てきたので、振り返って見上げてみると、右写真のような風景でした。

一体どういう構造でこのような外観になったのだろうかと思われる建築物です。

恐らく一番基礎のところは石造の建物があり、その周囲に隙間を埋めるように木造を増築していった結果、このような不思議な風景になったのではないか、とも思われます。

更に進んでいき見上げると、ちょうど長江索道の乗り場の真下あたりにたどり着きました(左写真)。

上から見たときにも急な斜面だと感じましたが、見上げてみてもその高さを実感出来ます。
写真左手前に写っている建築物ですが、「重慶市文物保護単位」というプレートには「中共重慶地方委員会旧跡」と書いてありました。

ということは、矢張りこの一帯は、50年以上前は重慶市の中心部の位置づけだったのかもしれません。


(2013年1月)

【参考文献】
『成都・重慶物語』、筧文生、集英社、1987年。