嘉陽小火車・芭石鉄路



【銀川の歴史】


銀川は、沙漠地帯にありながら黄河に面していたため農業が盛んであったことから、春秋戦国時代から発展してきた大変に古い都市です。

「シルクロード」といえば、河西回廊と呼ばれる長安(現在名:陝西省西安市、以下同様)→蘭州(甘粛省蘭州市)→甘州(甘粛省張掖市)→粛州(甘粛省酒泉市)→瓜州(甘粛省瓜州県)→沙州(甘粛省敦煌市)を抜けて西域へと抜けるルートが一般的ですが、時代によっては更に1本北側を走る、長安→興慶(寧夏回族自治区銀川市)→甘州→粛州→瓜州→沙州、のルートが使われたこともあり、銀川は長安を出て最初に出会うオアシス都市として交易上・戦略上の重要拠点となっていました。

西夏王国の時代には興慶という名前で首都となり、その後、元代の寧夏総督府、明清代の寧夏県、1929年に寧夏省が成立した際に賀蘭県と改称、1945年に銀川となり、現在は寧夏回族自治区の省都となっています。


【銀川市】

銀川市内は、興慶・寧夏等の歴代都市が置かれていた旧市街と、工業地帯として近代になって発展した新市街に分かれています。

歴史スポットは旧市街に集中していますが、政府関係庁舎や寧夏博物館などは新市街にありますので、ビジネスで訪れた方は新市街、歴史観光で訪れる方は旧市街に宿泊するのが便利だと思います。

尚、銀川市内には地下鉄は無く、移動はタクシーと路線バスが中心となりますが、路線バスは全般に朝が遅く(始発は7時前後)夜が早い(終バスは19時前後)の為、注意が必要です。

<玉皇閣>

銀川市旧市街中心部にあるシンボル的な建物です。
東西37.6m、南北25m、高さ11mと、市街地の楼閣としては大きい方だと思います。

横にあったプレートによれば、創建は明代洪武年間と言われており、明代の『嘉靖寧夏新志』にある市街地図では「焦
(正しくは言ヘンに焦)楼」、清代の『寧夏志』では「玉皇楼」と記されています。楼閣の中に道教の「玉皇大帝」の銅像があることからこの「玉皇楼」の名前が付けられました。

清乾隆3年(1739年)の地震で倒壊したものの同5年に再建され、1954年の改修を経て1963年に寧夏自治区の文物保護単位に指定されています。

<鼓楼>(右上写真)

玉皇楼のすぐ西にあるほぼ正方形の建築です。
高さ36m、基台は一辺24mの正方形をしています。
建築は清道光元年(1821年)であり、光緒34年(1908年)に基台の上に3層の楼閣が建設され、中華民国6年(1917)年に再建されました。

楼閣の中には党史陳列館があるようですが、筆者が訪れた際には階段は閉鎖されていて登ることは出来ませんでした。

<南門楼>

「小天安門」などと書かれている旅行記を見ましたが、確かにその通り、高さ27.5m、幅24.5mと小ぶりながら、見た目は天安門に極めてよく似ています。

創建年代は不明ですが、明代、北京の天安門が築かれたのと略同時代ではないかと言われています。

鼓楼同様、清乾隆3年(1739年)の大地震で崩壊しましたが、同5年に再建されました。

その後、清国最後の年である宣統3年(1911年)に戦火で焼失しますが、中華民国時代になってから再び再建されています。

元々は城門で、周囲に城壁がありましたが、1953城壁が撤去され、現在は城門部分を残すのみとなっています。年

<承天寺塔>

西夏王国の首都であった興慶(現在の銀川市旧市街)は、チンギス・ハン率いるモンゴル帝国に滅ぼされた際に略焼き尽くされてしまった為、当時の名残は殆ど無く、辛うじてこの承天寺塔だけが当時と同じ場所に残っています。

創建は西夏時代の1050年です。筆者が訪れた際に担当してくれたガイドさんによれば、モンゴル帝国は中華色が強い文化を破壊して回ったものの、仏塔だけは破壊しなかった、とのことで、その後も仏塔はオリジナルが残っていましたが、清代に地震で倒壊し、再建されて現在の姿になりました。

8角11層、高さ64.5mと、西安の大雁塔よりも高い仏塔で、現在は旧市街の西部にあることから西塔とも呼ばれています(塔の前にあるバス停の名前も西塔となっています)。

入場料:3元 (月曜休館)
登塔料:15元
(何れも2014年5月時点)

尚、塔は11層あり、内部階段は非常に細く急な為、登られる際には安全にはくれぐれも注意してください。

<寧夏博物館>

このページでご紹介した中では唯一新市街にある観光スポットです。

元々は上述の承天寺院内にありましたが、
寧夏回族自治区成立50周年記念行事として新館建設が計画され、2008年9月に正式開館しました。

内部は3階建となっており、1階は石刻、2階は寧夏通史、3階は回族文化が主に展示されていますが、特に2回の寧夏通史が最大の見所です。

尚、3階の回族のコーナーに2000年の人口調査が展示されていましたが、中国全土に約9.8百万人、うち寧夏回族自治区に約1.9百万人、続いて回族人口の多い順に甘粛省、河南省、新疆ウイグル自治区、青海省となっていました。
意外なことに重慶の回族人口は約1万人と、中国全土で下から4位となっています。

<回族について>

中国には多くの少数民族が居住していますが、この回族は、実際には所謂少数民族とはやや異なり形質的な民族としては飽く迄も漢族、但しイスラム教を信奉する人たちを回族として定義しています。かつてアラブ系やペルシア系のイスラム教徒がシルクロード交易で中国まで来て中国人と通婚したことが回族の発祥とも言われています。

基本的には中国語を用いますが、イスラム教はアラビア語を基本とする為、街中の看板にも中国語、英語と並んで、アラビア語が併記されていました。

但し、ガイドさんによれば、寧夏自治区の回族はほぼ中国語を母語としており、看板にアラビア語を表示していることに実質的な意味はないとのことでした。


【西夏王陵】

銀川市中心部から西に約35kmほど、賀蘭山の麓に位置する、西夏王国の王陵です。

総面積53kuという広大な敷地に9つの王陵と約250の副葬墓がありますが、現在観光地として一般開放されているのはそのごく一部です。

右写真の入口で入場券を購入して中に入り、カートに乗って王陵へと向かいます。

入場料:60元(2014年5月時点)

カートは左写真の西夏博物館前に停車しますので、まずは博物館で西夏王国の歴史をおさらいしてから王陵を見に行くと、より一層、面白味が出るのではないかと思います。

博物館から更に整備された観光歩道を歩くこと10分、漸く王陵の看板がある場所(右写真、クリックすると拡大します)まで到着します。

ここで見学できるのは3号王陵で、李元昊の墓だと言われています。

1号・2号王陵は3号王陵からやや離れたところにあり、筆者が訪れた際には3号王陵から遠く眺めるのみでしたが、1号・2号王陵へと向かう道路が建設中でしたので、何れは見学出来るようになるのかもしれません。

西夏王陵は左写真(クリックすると拡大します)ようなピラミッドのように残った形で有名ですが、実はこのピラミッド自体はお墓の本体ではありません。

博物館にあった展示(右下写真)によれば、墓室はピラミッドの手前地下にあり、ピラミッド自体はかつて王陵全体を覆っていた建築物の土台の一部であったとのことです。

モンゴル族が西夏王国を滅ぼした際、墓は盗掘され建築物も焼き払われたことから、ピラミッド型の土台だけが後に残され、現在のような姿で残ったようです。

<西夏王国について>

この時代、所謂中華帝国としては宋王朝が栄えていましたが、然し宋王朝は歴代の中華帝国対比、文治主義を重んじていた為、その裏返しで武力面では弱体化したことから、周辺諸国を押え切ることが出来ませんでした。

結果、北東には契丹が興した遼、南西には回鶻族のウイグル王朝、南にはチベット族の吐蕃、そして北西にはチベット系タングートが興した西夏、が群雄割拠することになります。尚、西夏というのは宋王朝からの呼び名であり、自身では大夏と称していました。

1038年に李元昊によって建国され、チンギス・ハンにより1227年によって滅ぼされるまで、約200年栄えていました。

<西夏民族>

西夏王国を築いたのはチベット系タングート族(中国語表記:党項族)と言われる人たちです。

元々は現在のチベット・青海周辺に居た民族が、同じくチベット系の吐蕃帝国が勢力を増した為、徐々に現在の陝西・甘粛に移っていき、唐末の黄巣の乱(西暦875〜884年、黄巣が中心となって発生した農民蜂起)に、唐を援助して平定した功績によって、李という姓を賜り、節度使(当初は辺境派遣軍事司令官職位だったが後に地方長官的位置づけのポスト)に任じられて、夏・綏・銀・宥・静の5州を統括することとなりました。

その後、周辺民族と対立しながらも徐々に勢力を拡大し、李元昊の時代に大夏(西夏)を建国しました。

チンギス・ハンによって西夏滅亡後、タングート族それ自体も事実上消滅してしまいますが、四川省北部にはタングート語に近い言語を持つ民族があることから、この辺りに末裔は生き延びているとも言われています。

<西夏文字>

西夏文字は、長らく解読されず謎の文字と言われていましたが、今日では概ねの解読が進んでいます。

西夏文字が発明された時代、中華の周辺国には同じように漢字をベースとした文字文化がほぼ同時に花開いています。
我が国の平仮名・片仮名は平安時代から使われ始めていますが、西夏文字が発明された時代に僅かに先立っている程度であり、略同時期に周辺国でこうした状況が生じたのは、中華文明が周辺国に伝播して一定の時間が経過し現地化が進んだこと、一方で中華文明を支配する巨大帝国が消滅し、五代十国時代から国力が決して強くなかった宋王朝と続いたことで、周辺諸国に自立心が芽生えたこと、などが挙げられるのではないかと思います。

画像は『番漢合時掌中珠』という西夏王国時代に纏められた、漢語と西夏文字の対照表です。

4列が1セットで、

2の漢語の読み方を西夏語で表記 元となっている漢語 2の漢語の西夏語 3の西夏後の読み方を漢語で表記

という構成となっています。

井上靖『敦煌』には以下のような下りがあります。

「彼(注:主人公、趙行徳)が作り上げた西夏文字と漢字との対照表は、一冊の冊子としての体裁を持たせられ、(中略)六十歳近い人物が、その一冊を行徳のところへ持って来て、それに書物の題名を付するようにと言った。(中略)その冊子の表紙に貼り付けられた細長い白紙の部分に、「番漢合時掌中珠」と認めた。」


実際の『番漢合時掌中珠』の作者は恐らく複数ではなかったのかとも思いますが、何れにしても古代文字を作り、解読しようとした人たちの姿が浮かんでくるような小説の一節だと思います。


【水洞溝・明長城・蔵兵洞・紅山堡】

この遺跡は、旧石器時代と明代の遺跡を同時に楽しめる場所となっています。

先ず右写真の入口から入ってすぐの水洞溝遺跡で博物館を見学、次に復元された旧石器石器時代の村などを通り、カート若しくはトラクター車に乗って発掘現場を抜け、明の長城見学、そこから多くの乗り物を乗り継いで明代の軍事施設へ行くのが一般的なルートです。

入場券:80元(2014年5月時点)
交通券:60元(カート車・船・ロバ車・ラクダ車・トラクター車)

水洞溝博物館(左写真)は建築面積4,308u、中国中西部最大級の石器時代博物館です。

内部には遺物展示の他、3万年前、まだこの地が沙漠ではなく豊かな森だった時代の様子がジオラマで再現されており、映像を使った当時の様子の再現舞台はそれなりの見応えがあります。

博物館の見学を終えると裏口から出る形となっており、そのまま進むと水洞溝遺跡を発見した外国人が宿泊していた「張三小店」(右写真)、更にその先には旧石器時代の住居を再現したエリアが続いています。

旧石器時代の再現住居は日本の登呂遺跡のような竪穴式でしたが、どこまで正確に再現されているのかには、やや疑問も残ります。

更に先に進むと、巨大な水洞溝の碑(左写真)が見えてきます。

ここが写真スポットのようで多くの観光客が記念撮影をしていました。

碑の横にあるプレートを見ると、「外国人が訪れる価値のある50の場所 銀賞」と書いてありました。そんな賞は聞いたことがありませんでしたので調べてみたところ、確かにそういう名前の賞が10年ほど前に発表されていましたが、水洞溝の名前は無く、また他の受賞観光地名を見ると聊か首をかしげざるを得ない場所も少なくありませんでした。

右写真の場所でカート車に乗り換えて沙漠の渓谷を進みます。

カート車を降りた場所が、水洞溝遺跡の発掘現場(左下写真)です。

ここには「中国史前考古学発祥の地」という大きな碑も建てられていましたが、どうもこの遺跡はそうした些か誇張した表現が好きなようです。

尚、発掘現場は特に何がある訳ではないので、考古学に興味が無い方はわざわざ見に行く必要はありません。

そこから階段を登ったところが明代の万里の長城です。

明代の万里の長城というと、北京の八達嶺のような煉瓦造りの立派な建築物を想像されるかと思いますが、ここの万里の長城は版築で建築された当時の姿を留めており(右写真)、個人的にはこうした長城遺跡の方が好みです。

中国らしく、明代遺跡である筈の長城の上に登ることも出来ます。

この長城の奥にはフェンスが設置されており、その向こうは内モンゴル自治区となっています。

ここから次の見所へは徒歩が基本なのですが、観光地とは全く別の業者がラクダでの移動を販売しています。

乗ラクダ代:30元

このラクダは観光地とは関係の無い業者の為、入口で購入した交通券には含まれておらず、ここでラクダ券を購入するのですが、適当な民間業者の為、乗せる際の順番や整理などがいい加減で、筆者はここでやや揉めてしまいましたので、ご注意ください。

ラクダに乗って10分弱、今度は船着き場で船に乗り換えます(右写真)。

この水場は、水洞溝を流れていた河をせき止めて作った人工湖のようですが、貴重な遺跡にこのようなものを作って良いのか、聊か疑問が無くもありません。

船は5分ほどで次の場所に到着し、少し歩いたところから今度はロバ車に乗り換えます。

ロバ車に10分ほど乗ったところで、今度はラクダ車と船の二者択一となります。

船は先ほどと殆ど変らない様子だったので、筆者はラクダ車を選択しました。

ラクダ車にも10分ほど乗車します。

チップを払うと馬子ならぬラクダ子が歌を歌ってくれます。
我々は払いませんでしたが、同乗した中国人グループが頼んだので、無料で聞けてしまいました。

以上、非常に多くの乗り物の乗り継ぎを重ねて、左写真のような沙漠の狭い渓谷に到着します。

よくよく見ると崖のところどころに窓のような穴が開いていますが、この崖の中が蔵兵洞という明代の軍事施設遺跡となっています。

蔵兵洞とは「兵隊が隠れる洞窟」の意味で、遺跡として発掘が開始されたのは2006年と比較的最近です。

調査によれば地下洞窟の総延長は3km以上あるようですが、現状発掘と整備が進んだのは半分以下です。

内部は迷路のように通路が張り巡らされており、指揮所、会議室、休憩室、寝室、台所、井戸、武器庫、食糧庫などが確認されています。

蔵兵洞の上には、紅山堡という地上の城も再建されています。

紅山堡から再び地下へと戻る方法もありますが、ここから紅山堡の城壁(左写真)を抜けて戻るのが一般的なルートです。

城壁を抜けたところでトラクター車乗り場がありますので、ここでトラクターに乗れば、最初に入った水洞溝博物館前のゲートまで連れて行って貰えます。

以上、水洞溝・明長城・蔵兵洞・紅山堡の4つの観光地を、カート車・ラクダ・船・ロバ車・ラクダ車・トラクター車を乗り継いで観光すると、たっぷり3時間は掛かりますので、ここに訪れる際には時間に余裕を持ってスケジューリングをされることをお勧めします。

尚、風向きが南風の場合、銀川空港から離陸して暫くすると、右手下に水洞溝と紅山堡を見ることが出来ます。

筆者が乗機した際には遺跡の真上を飛んでしまった為、辛うじて通り過ぎる間際に写真を撮ることが出来ました。


<参考文献>
『中国史稿地図集』、郭沫若編、中国地図出版社、1990年。
『中国史を語る』、山口修、山川出版社、1995年。
『敦煌』、井上靖、新潮社、1965年。


(2014年5月)