大仏寺・洋人街


【潼南大仏寺の行き方】

潼南大仏寺のある潼南県は、重慶市中心部から北西約100kmに位置しています。

大仏寺は、潼南県中心部から更に1.5kmの定明山の麓にあり、見たところ周辺には公共交通手段は無いようですので、重慶市内から車をチャーターして行かれることをお勧めします。

市内から高速道路で隧寧・成都方向へ向かい、潼南若しくはその次の双江で降りると大仏寺への案内板が多く出ていますので、それほど迷うことは無いかと思います。


【潼南大仏寺】

通常は山の麓に山門があり、山を登っていくにつれて中核となる建築物がある寺院が多いと思うのですが、大仏寺は逆の造りになっています。

駐車場で車を降りると右上写真のように山門があり、こちらで入場券を購入します(2013年3月現在、10元)。
然し山門を抜けて中へ入ると、目の前に広がるのは左上写真のような、川と一面の菜の花畑で、お寺などどこにも見当たりません(左上写真はクリックすると拡大します)。お寺は川へ下って行ったところに建てられています。

なぜこのような上から下に参拝するルートとなっているのかについては、特に説明はありませんでしたが、@元々山門は川沿いにあったが洪水などの理由で上に移築された、Aかつてはお寺も山の上にあったが磨崖仏が中心的な位置づけとなったことで本堂が川の方に降りて行った、といったところではないか、と思います。実際のところ、山門だけは新しい建築物でしたので、@あたりなのかもしれません。

大仏寺の創建は唐の咸通年間(860〜873年)と言われており、当初は定名寺、若しくは南禅寺と呼ばれていましたが、その後、シンボルである大仏の名前をとって現在の大仏寺に改名されました。

大仏は大仏寺の創建時から掘削が始まりましたが、途中で中断されるなどして、完成をみたのは200年以上後の1126年であると言われています。その後、1152年に金で装飾され、1802年、1870年、1921年に再塗装され、直近では2012年に大幅な改修が行われています。

私たちが訪れた際には、改修が終わって1年も経っていませんでしたので、大仏は右写真のように正に黄金色に輝く状態でした(写真はクリックすると拡大します)。

率直に言って日本人的美的感覚から言えば疑問符が付かなくもありませんが、中国的には非常に有難い光り輝く大仏に見えているものと思います。

尚、この大仏は黄金仏としては中国最大、世界でも第8位だと言われているそうで、潼南の至る所に「中国最大の黄金大仏」という横断幕が掲げられていましたが、真偽は不明です。

大仏寺は臨済宗のお寺で、国家重点文物保護単位にも指定されています。

創建は先にも記載の通り唐代ですが、その後、1151年、1278年に再建され、最近では1922年にも一部建築物の再建が行われています。

主な建築物は山門方向から玉皇殿、観音殿、大仏殿(大像閣)と3つありますが、何れも清代〜中華民国時代に再建されたものです。

そのうち中心的な建築物は黄金大仏を覆う大仏殿(大像閣)であり、高さ30m、7重の屋根を持つ、非常に風格ある形式です。大仏殿にはいると、黄金の大仏は正面に大きく鎮座しており、見るものを圧倒する雰囲気があります。

大仏殿の前には参拝用の広場があり(右上写真、クリックすると拡大します)、多くの方々が焼香をされていました。

大仏殿の先には左写真のような階段があります。

この階段は如何にも上に何かがありそうなので登ってみたくなりますが、実際には上まで登っても封鎖されて行き止まりとなっており、景色の良さそうな城門の上に向かう通路も通れないようになっていました。

階段左側には「七情台」との説明プレートがあり、「足踏をすると音が響くので七歩弾琴と言われており、明代に建築されたことから北京の天壇公園より100年余古く、我が国の4大古代回音建築の一つ」だと書かれていましたが、実際に足踏をしてみても特に音が響いた感じはなく、本当に4大回音建築なのかどうかも定かではありません。

七情台を通り過ぎると、その先には断崖沿いに多くの仏像や文字が彫られている場所があります(右写真)。規模はだいぶ小さいですが、龍門石窟も想起されるような風景です。

一番手前には「仏」と大きく書かれた文字を見ることができます。
説明プレートには「立地成仏」とあり、「高さ8.85m、清同治年間に書かれたもので、我が国第一の磨岩仏字である」とありましたが、私はこれよりも大きくて立派なものを見た記憶もありますので、この我が国第一という表現には、やや誇張が入っているのではないか、とも感じられました。

更に先に進むと左写真のような記念碑が見えてきます。

文字が黄色や赤で書かれていますので写真では判り難いのですが、「歴代洪水碑記 潼南県人民政府 2011年8月16日立」とあり、歴代の大洪水においてどの位まで水位が上がったかが判るようになっている記念碑でした。

因みに一番上に記載されていた記録は「乾隆47年(1782年)」とあり、私たちが訪れた日の川面から見ると、軽く数十m以上ありそうな高さでした。

ここまでの大洪水が発生したならば、被害も相当なものであっただろうと思われます。

冒頭にて、何故山門が山の上にあるのかについての類推を書きましたが、この洪水碑を見ますと、施設は高いところに作りたくなるな、と感じます。

大仏寺が何度も再建されたり、大仏が何度も塗り直されたりしたのも、こうした大洪水が一因となっていたのではないでしょうか。


(2013年3月)