重慶の歴史


【重慶城】


重慶は古くから発展した街であり、歴史上「首都」となったのは、春秋戦国時代の巴国、元末の大夏国、抗日戦争期の中華民国、の3度ですが、それ以外の時代にも常に中規模以上の都市として栄えて来ました。

重慶が古来より都として栄えた理由は、何と言っても長江と嘉陵江という2大河が交差する場所にあり、半島型の地形が唯一接する陸地も山となっていることから、軍事的に「易守難攻」な地形であったこと、加えて経済的には成都・雲南・貴州を結ぶ物流の要衝であった点も挙げられます。

重慶に「城」が築かれたのは南宋時代のことです。当時、宋王朝はモンゴル軍の脅威に晒されていましたが、南宋嘉熙2年(1238年)に重慶府知事として派遣されてき蒙古軍を良く知る彭大雅という人物が、蒙古軍対策として城壁を築いたことに始まると言われています。城壁は嘉熙4年(1240年)に完成し、『宋史』『元史』には、洪崖・千斯・鎮西・熏風・太平の5門が設けられたとの記述を見ることが出来ます。

重慶城が現存する地名に見て取れる形となったのは、明代初期の洪武6年(1373年)〜10年(1377年)の築城であり、明代の測量記録には「一周2660丈7尺」とあり、当時の1尺=0.365mから換算すると約8.7kmということになります。

現在の地図で黄花園大橋・長江大橋から先の半島部分の外周を測ってみると約8kmありましたので、概ねその範囲が旧重慶城内だということが出来るかと思います。




【重慶城門】

かつて、重慶城には「九開八閉」と呼ばれる以下17の門がありました。

長江沿い:朝天門、翠微門、東水門、太安門、太平門、人和門、儲奇門、金紫門、鳳凰門、南紀門の10門
嘉陵江沿い:西水門、千斯門、洪崖門、臨江門の4門
陸地:金湯門、通遠門、定遠門の3門

<清乾隆帝時代の重慶古地図>


これら17の門のうち9つの水門が通常開いていたことから「九開」(地図上では赤で門を表示)、残りの8つの門は状況によって開け閉めしていたので「八閉」(地図上では青で門を表示)、併せて「九開八閉」と呼ばれるようになったようです。

現在の地図で地名として残っている場所を拾ってみると以下の通りです(一部はそのままではなく洪崖洞や金湯街のように変化している地名を含みます)。


これらの門のうち、かつてのものが現存しているのは青で表示した東水門、通遠門の2つのみのようです。


【参考文献】
『老城門』、唐冶澤・馮慶豪編著、重慶出版社、2007年。

(2013年6月)