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嘉陽小火車・芭石鉄路


【広安の歩き方】

四川省広安市は重慶市の北約100km、四川省に入ってすぐの場所にある、ケ小平の故郷として有名な地方都市です。

重慶市からは、バス・列車何れの方法でも気軽に行くことが出来ますので、筆者は往路は列車、復路はバスを使ってみました。

<列車での行き方>

広安は重慶北駅から北回りで北京・上海・西安等の主要都市へ向かう路線の途中にある為、略30分間隔で列車が出ており、切符の入手にはそれほど苦労は無いものと思います。

現在、この路線には新幹線の運行はありませんので、特急若しくは快速に乗車し、重慶北から1つ目の停車駅が広安で、約1時間20分程度で到着します。

広安は典型的な地方駅でタクシー乗場も無いことから、基本的にはここからバスで移動することになります。
尚、駅名は広安となっていますが、駅は広安市中心部から東に25kmほど離れた前鋒鎮という場所であることから、バスの場合、前鋒という地名で探してください。

駅を降りて駅前通りを横断すると、すぐ右手に前鋒バスターミナルがあります(左写真)。
ここから各地への短距離バスが出ており、広安へも約15分毎にミニバスが出ています(筆者利用時8元)。
約30〜40分ほどで広安北バスターミナルに到着します。

<バスでの行き方>

直線距離では約100kmですが、高速道路を経由すると約150kmの距離になります。重慶と広安間は約20〜30分に1本バスが出ています。

重慶の乗場は列車駅の重慶北駅隣にある龍頭寺バスターミナル、広安側は広安南バスターミナルになります。
尚、広安には上述の列車駅からのバスが到着する短距離中心の北ターミナルと、中長距離を中心とする南ターミナルがありますので、ご利用の際は注意をお願いします。


【ケ小平故里】

ケ小平は「社会主義市場経済」「先富論」に代表される「ケ小平理論」を導入・実践し、現代中国の発展の基を築いた人物です。

そのケ小平の生家を中心として開発された観光地がケ小平故里であり、現在は国家5A級観光地にも指定されています。

市中心部からは8番バスでケ小平故里にて下車すると1本裏通りに出ます。敷地は非常に広大な公園のようになっており、随所に記念館や展示館が点在していることから、全体を見て回ると2〜3時間程度は必要です。

以下に失脚から3度復帰したことから不死鳥とも呼ばれたケ小平の波乱の生涯を簡単にご紹介します。

<青年時代まで>
1904年、四川省広安県(現広安市)の裕福な客家系地主の家に生まれる。幼少時は先聖/希賢の名を用い、後に小平と改名。
1920年に広安県を出てフランスへ留学するも生活苦から半年で一旦は学校を退学して勤労・貯蓄し、1922年に再び入学。その後、再び工場勤務するなどの苦学生生活を送る。
この留学中、中国少年共産党に入党、1925年には中国共産党ヨーロッパ支部の幹部となったことからフランス政府に睨まれた為、1926年モスクワへ、モスクワ中山大学で共産主義を学ぶ。
<1度目の失脚と復活>
1927年に帰国し共産ゲリラ活動を開始、1931年に武装蜂起し毛沢東軍に合流、瑞金書記に就任。然し農村ゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従ったケ小平は一旦失脚。
1935年、周恩来の助力で中央秘書長に復帰、毛沢東の長征に参加。更に八路軍政治委員として抗日戦争にも参戦。1946年以降の国共内戦では准海戦役や揚子江渡河作戦で戦果を上げる。
<2度目の失脚と復活>
1949年の中華人民共和国成立により西南部の解放戦を指揮、1952年政務院副総理、1953年政務院副総理兼財政部長、1955年中央政治局委員、1956年中央政治局常務委員に選出され、中央書記処総書記に就任。
大躍進、文化大革命で毛沢東との対立を深め、1968年には全役職を剥奪され江西省南昌へ追放。1973年に周恩来の助力により国務院副総理に復活、同年中央委員にも返り咲き、党中央委員副主席、中央軍事委員会副主席、中国人民解放軍総参謀長に就任するなど完全復活を遂げる。
<3度目の失脚と復活>
1976年の周恩来病没による第一次天安門事件で四人組に全職務を剥奪され広州へと逃げ延びていたところ、同年9月の毛沢東死去により華国鋒の支持を得て1977年には国務院常務副総理、党副主席、中央軍事委委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に復帰。
<指導者の地位確立後>
1978年には日中平和友好条約批准の為、中国首脳として初めて来日。
1980年には趙紫陽が国務院総理に、1981年には胡耀邦が党主席に就任した際、ケ小平は党中央軍事委員会主席に就任しつつ実態的には全ての権力を掌握したケ小平体制が出来上がる。
1989年の第二次天安門事件を契機に江沢民を党総書記へ抜擢、ケ小平は表面的には政治の役職から降りる。
1992年春節、シンセンや上海を視察して「南巡講和」を発表。
1997年2月19日、病没。享年92歳。

ケ小平の経歴を見ると、16歳でフランス留学の為に広安を離れてから、その後生涯広安には戻らなかったようです。

ケ小平の名言で最も有名な「先富論」と「白猫黒猫論」を簡単にご紹介します。

<先富論>

文字面から「先に富むことが出来る人から富を得よ」としか説明されないことも多いのですが、正確には更に続けて「その上で、先に富んだ者は貧しい人を助けよ」と述べています。

最終的な評価は歴史が決めるものですが、ケ小平がこの言葉を唱えた1985年頃の中国の状況と現在の中国の発展を比較するに、少なくとも当時の国家指導者としては必要な判断だったのであろうと思います。

<白猫黒猫論>

「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」(中国語「不管K猫白猫,捉到老鼠就是好猫」)との「白猫黒猫論」は、中国近現代史に関心が無い方であっても一度は耳にされたことがあるものと思います。

四川省(安徽省という説もあります)に伝わる以下のような話が元ネタだと言われています。

「黄猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である。」

四川省は天府の国として穀物が豊富であることから鼠が多いので、農民は鼠を排除する為に種類を問わず猫を飼っていたことに由来するようです。

ケ小平がこの論理を主張した当時、旧来からの共同生産組織である「人民公社」と、個々の農家が夫々に農地を経営する「包産到戸」の何れがあるべき姿かの議論がなされていました。

その際、ケ小平は「理念に合致していようがいまいが、迅速且つ容易に農業生産を回復させる方法を採用すべきである」と主張し、それを判り易く説明する為に故郷の故事を引いてこの言葉を使ったと言われています。


【神龍山巴人石頭城】

神龍山巴人石頭城は、広安市中心部南側にそびえる小高い蛇龍山全体を巴人に関する歴史テーマパークとして開発した国家4A級観光地です。

市中心部からは1路・5路のバス停「市衛生局」で下車、南方向へ200mほどで入口に到着します。1路・5路バスともに南バスターミナルにも停まりますので、中距離バスで広安に到着した場合は、そのまま市内バスに乗り継いですぐに見学することが可能です。

入口の門をくぐって右手へ進み、建物の中を上っていくと有料観光地のゲートに到着します。筆者が訪れた時点ではこの建物がまだ建設中で、そもそもどこから入るのかすら判らず、工事現場の中を進んで行かないとならない状態でした。

この観光地は一見する限り(中国にありがちな)質の悪い単なる再現テーマパークという印象で、筆者も率直に言ってゲートを抜けて暫くの間は「これは来て失敗だったか」と感じました。

然し建築物をよく見ると、質の悪い再現されたものの中に、微妙に清代〜民国時代の本物が混ざっています。また出口近くにある龍沢寺エリアの遺構を見ると、少なくとも宋代くらいまでは遡れそうな城塞跡が残っていました。随所に展示されている物品も、見たところでは清代以前の本物に見えます。

つまり、どうも本物の城塞遺跡をベースとして、その上に歴史テーマパークを建設してしまったようです。人民網でも、「中国で最も完全な巴人の遺跡」として紹介されていました。

惜しむらくは、本当の遺跡の部分と後からテーマパークとして作られた部分の区別が判らず、また本当の遺跡であろうところに関する説明が殆ど無い点です。

説明プレートは随所に設置されているのですが、景色が良い的な説明ばかりで、肝心の歴史的な由来や学術的な意義的なことには全く言及されていませんでした。

筆者が調べた範囲では、巴人の城塞は今から2千年前の戦国時代末期、巴人が当時の国都江州(現在の重慶市中心部)を守るために作られた軍事要塞で、紀元前316年に秦の昭王が巴国を滅ぼして以降も現地に残る巴人の要塞として使われていました。

その後、巴人の勢力が低下するにつれて、この城は地縫政権の軍事拠点となり、南宋淳佑3年咸淳2年の間は対蒙古軍の防衛拠点として使われてきました。

また北宋時代にはこの地に仏寺も建築されました。

その後も軍事駐屯地として使われてきましたが、残念乍ら大躍進と文革で大きな被害を受けてしまったところ、四川省の観光開発会社が再開発を請け負い、2003年に政府指導の下で再建・修繕され、現在の姿となっています。

是非とも今後は、歴史的な価値を説明する観光地にしていって欲しいと思われる場所です。


(2014年12月)